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2018-02-27

Tags: 沖縄県 西原町

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製糖記念小公園設置の趣旨

 沖縄のさとうきびは、中国から導入され栽培が広まった。江戸時代 (1600年代)には、すでに琉球王国の経済を支える重要な農産物であった。琉球王国時代、さとうきびは作付を制限されていたが、廃藩置県後の明治21年(1888)には作付制限令が撤廃され、各地で本格的に栽培されるようになった。その結果、黒糖は県外への移出特産品として経済の重要な役割をになうようになった。西原村(のちの町)は、肥沃な土壌にめぐまれていることから戦前戦後をとおして、盛んにさとうきびが栽培された。

 西原町は歴史的にも製糖とのかかわりが深く、明治41年(1908)字我謝(のちの字兼久1番地)に沖縄県臨時糖業改良事務局付属第一工場の近代化された工場が設置され、翌年には沖縄で、はじめての分蜜糖が製造された。
 一方、サーターグルマによる製糖も広く普及していたことから大正3年(1914)西原村字小橋川出身の大城助素氏は従来の鉄製サーターグルマより搾汁効率の高い玉車(ベアリング)式のサーターグルマを開発し、沖縄の製糖技術に一大光明をもたらした。
 その後の県内の砂糖づくりは、分蜜糖、黒糖とも大正期から昭和期にかけて着実に広まり、さとうきびは農家の重要な換金作物となり、砂糖は移出特産品として産業のおおきな柱となった。ところが太平洋戦争によって、大型工場からサーターヤーにいたるまで、すべての製糖施設が焼失した。そして、終戦後、焼け残った中からさとうきびを増やし、サーターグルマや機械類をあつめて糖業の再興を図っていった。

 西原村内では昭和31年(1956) 琉球農業協同組合連合会(琉球農連)第一製糖工場が字嘉手苅に設置され、昭和34年には西原製糖㈱が字小那覇の飛行場跡地に設立された。
 その後、昭和39年製糖企業合理化により両社は合併し、社名を中部製糖㈱へあらため、西原村をはじめ地域10ヶ市町村の農家からさとうきびを買いうけて、二つの工場で分蜜糖を製造した。そして、沖縄の歴史上かつてない糖業の絶頂期を迎え中心的な役割を果たした。
 中部製糖㈱の第二工場(旧西原製糖株)は、沖縄本土復帰(昭和47年)前後のさとうきび大幅減産により、昭和52年の閉鎖となった。第一工場は、平成5年に中・南部3社の製糖事業をまとめて引きついだ翔南製糖㈱へ譲渡された。
 翔南製糖㈱が引きついだ第一工場は、工場名を西原工場とあらため、平成10年(1998)まで製糖をつづけた。昭和31年の含蜜糖製造からはじまり西原町のシンボルともなった2本の煙突の製糖工場は、43年にわたる砂糖づくりの役割を終え、ついに平成11年12月西原町からその姿を消した。社会情勢の変化と共に沖縄本島ではさとうきびの減産がつづき、製糖企業の再編合理化は避けられないところとなったのである。

 以上の歴史的経過から西原町は糖業とのゆかりふかい町であることを伝え、糖業のうつり変わりを後世に語りつぐため、中部製糖㈱第一工場跡の一角である本地に製糖記念小公園を設置する。

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2018-03-14 20:28 (0)
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